ちょっと前、「心の動く行動をしよう」という記事で行動には2種類あるということを書いた。
それは、「面白そう、と心が動いたからする行動」と「これをしておかないとまずいな、という恐怖からする行動」だと。
その記事を書いた後に、改めて思ったのだけれど、
「恐怖」とまではいかなくても、人が行動する動機の多くを占めているものに、
「欠けているものを補うため」
という理由もあるな、と。
振り返って考えてみると、私もそういう行動をたくさんした。
- 今のままの自分ではダメな気がして、勉強をして、資格を獲る
- 経験が不足していると思って、タダみたいな仕事をする
- 人脈がないと思って、異業種交流会に行く
などなど……。
資格のために勉強するとか、一見ポジティブに見えるけれど、行動の動機が「欠乏感」なら、それは正しい方向に進むものじゃないなって最近は思う。
私が社労士資格を活かせなかった話は、もう何度もしているから、ここではしないけど(笑)
素敵な仕事人インタビューも最初の頃は、「自分にはなにもわからないから、教えて下さい」というスタンスだった気がする。
それを、「なんでも素直に受け取る姿勢がいい」と言ってくれる人もいたけれど、今考えると、当時は、本気で自分のなかの「欠乏」を信じていて、だから素直になんでも受け取れたんじゃないかな、とも思う。
でも、インタビューの数をこなしたからかもしれないのだけれど、ちょっと立ち止まったときに、はっと気づいちゃったんだよね。
あれ? なんで私、自分のなかに欠乏があるって前提で動いているんだろう?って。
しあわせになる本当の答えを知っているのは私だし、
(同じように、あなたがしあわせになる答えを知っているのは、あなた)
自分の中に必要なものはすべてあるのに、なにを焦ったり、足りないと思ったりしていたんだろう、と。
そして、一度そう気づくと、「別に外からなにか自分の中に引っ張ってくる必要なんて、ないよね?」というところに落ち着き、必要(だと感じられる)行動がすごく減った。
最近、人に会うのは「何かを得るため」でも「何かを与えるため」でもないと思っている。
そうではなくて、共鳴とか、共同でなにかを創るのを楽しむためだなって。
共同で作るといっても、作品や仕事を作るのに限らず、新しいアイディアにたどり着くとか、その場の空気を良いものにするとか、そんなのも含めて。
人に限らず、気持ちよい自然のなかにいたら、その場の空気感と共鳴しているのを感じるし、行動するのは、そうやって心地よく共鳴できるものを探して、だな。最近は。
素敵な仕事人インタビューも、ただ「教えてください」みたいなのは、もういいかな、と思っている。
最近、どんどん過熱していって、1記事が1万文字とかになってきて(純粋に、私のせい(^^;))、色々な意味で重くなりすぎてきたので、もうちょっと、緩くいこうかな、と(笑)
その人の人生を全部聞くというより、今の想いを聴いて、それに対して自分はどう感じたという記事を書くとか、もっと対談みたいな形にするとか、かな。
しばらくは、今までの形でのインタビューは休んで、新しい形を探ろうかなとも思っている。
と、ちょっと脱線したけれど、「恐怖」じゃなくても、「欠乏」を感じて行動している人が多いなぁ(そして自分も本当、そうだったなぁ)と思ったので、書いてみました。
本当のしあわせって心の状態でしかなくて、だから、しあわせになるために、外からひっぱってこなきゃいけないものなんて、本当は何もないんだよね。
そして、「自分のなかにすべてがある」と思えると、逆に必要なものが、自分に流れ込んでくる。
世界ってそんな感じ。