このブログは最初「働くビタミン、生きるミネラル」というタイトルだったのだけれど、立ち上げ当初から「しあわせに生き、しあわせに働くヒント集」みたいなサイトにしようと思っていた。
でも、当時は「社労士」だったのもあり、「しあわせに働くってどういうことだろう?」という問いが自分の中で大きかったように思う。
でも、色々な人にインタビューしてきて、そして自分自身とも向き合ってきて、今、思うことは、
「働く」って、「生きる」表現の一つの形態でしかないな
ということ。
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職業にこだわるのは「欠如」思考
多分、私自身が、自分のなかに「欠如」をすごく感じていたときって、外からの評価とか、役割みたいなものを得るのに躍起になっていたのだと思う。
そういうときは、「どんな仕事をしているのか」というのは、結構重要なファクターだった。
自分自身を自分で評価するときにも、人を評価するときにも。
大きな会社に勤めている人に会ったら「すごい」と思い、弁護士などと名乗る人に会っても「すごい」と思い、人を雇うくらい事務所を大きくしている社労士に会っても「すごい」と思い、それに比べて自分は何者にもなれていない気がして焦り……。
それで、文学賞さえ取ったら作家になれると思って賞を追い求めたり、資格を獲ったら何者かになれると思って、社労士の資格を獲ってみたりした。
けど、今思うのは、本来の仕事って、
その人がその人でいたら、勝手にあふれ出てくるなにかが、外に影響を及ぼす、その作用
って程度のことなんじゃないかな、と思う。
勝手にあふれ出してくる何かが、社会に貢献する
またいびつな図に再登場してもらうけど(笑)、この図でいう黄色い矢印の部分。
これが人が社会に対してしている「貢献」であり、「仕事」なんだと思う。
詳しくは「一緒にいて心地よい人と、疲れる人の違い」で。
最近すごく思うのだけれど、自分が心満たされた良い状態でいるときって、相手のために何かしようと思わなくても、絶対相手に良い影響を及ぼすはずなんだよね。
インタビューでも、ただ話を聴いているだけで、アドバイスしようとか考えているわけじゃないのだけれど、相手が勝手に考えをまとめて
「すっきりした」「次に進む方向が見えた」「この方向で間違っていなかったと確信できた」
って言ってくれることが多い。
私は別にカウンセラーとか名乗る気はないんだけど、人に会って、ただ自分が良い状態でその場にいて、相手の話にゆるく(変に相手にいいことを言おうなんて力まずに、ということ)反応していたら、相手にカウンセリングを受けたような効果を与えられる。
それって、立派に社会に貢献しているってことだと思うし、だからお金はもらわなくても、「仕事」みたいなものになっている。
そして、相手がその「仕事」に満足してくれたら、いずれはお金を払ってでも頼みたいって言ってくれるかもしれないし、そうしたら、一般的に定義される「仕事」にもちゃんとなる。
インタビューを始めた頃はよく分かっていなかったのだけれど、初期の頃にインタビューさせてもらったカメラマンのまーしーさんが
「ただ好きで写真を撮っていたら、友達から、ランチをおごるから撮ってと言われるようになって、今はお金をもらって撮るようになっている」
と言っていたのは、まさに、そんな感じだな、と。
「職業」を目指し、自分を変えるのではなく……
「まず自分を満たす」「まず自分をしあわせにする」と言うと、すごい自己中心的なことを言っているようにとられるかもしれないんだけど、自分が満たされていないのに、誰かに何か与えようなんて、偽善でしかない。
そしてそういう満たされていない人が、自分の欠如を埋めるために、格好良く見える仕事を探して、その職業になろうとあがき、自分自身が混乱しているのに、世の中に影響を与えられる職業についちゃったりすると、世の中の混乱がさらにひどくなる……。
(ま、私も「先生」や「コンサルタント」だったこともあり、過去に世界の混乱に加担していたら、ごめんなさい、ですが(^-^; )
そんな自分自身の反省も踏まえて、やっぱり、今はこう伝えたい。
「働く」は「生きる」の延長線上に現れる、一つの行為の形にすぎない
と。だから、
何かの職業を目指して、その形に自分を合わせようとするのではなくて、むしろ自分からあふれてくる行動をして、それに自分で名前をつけるか、人に名前をつけてもらいなさい
と、今は言いたい。誰に言いたいかって、15年くらい前の私に(笑)
今、もし「自分は人の役に立つ仕事ができていない」と思うなら、まずは徹底的に自分自身と自分の内に眠る「好き」を肯定して、ひたすら自己中心的に生きてみたらいい。
人からの評価なんて気にならなくなるくらい、自分で自分をしあわせにできたら、そのしあわせは勝手に外にあふれ出していき、その一部が、また勝手に「仕事」につながっていくはずだから。