ぱっと動けないときは、自分のハートに栄養を上げよう

このあいだ、「自分が良い状態でなければ、人なんて助けられないよ」という記事で、

自分が辛いときは人を助けることなんて考えなくいい

と書いたら、反響があったので、今日はもうちょっとこのことを突っ込んで書いてみる。

 

そこで言いたかったのは、

「人を助けなくていい」ということじゃなくて、

「まず自分を助ける」その次に「人を助ける」という順番が大事だっていうこと。

 

自分がおぼれているのに、人を助けようとしたって、救えない。

 

それなら、自分がまず川岸に向かって、「118」に電話するとか、川岸から浮き輪の代わりになりそうなものを投げ入れるとか、おぼれている人がいることを周りの多くの人に気づいてもらうように働きかけるとかするべき。

 

ドラマとかでは雪山で遭難したとき、「お前を捨てて俺だけ助かるなんて、できない」と2人で死ぬのが恰好いいみたいなシーンもあるけど、体力のある方が山を下りて、救助を要請したほうが助かる確率は絶対高くなる。

 

自分がつらいときに、人を助けなくていいよ、

というのは、そういう「効率」の話でもある。

 

というのは、自分にも「助ける余裕がない」時期が長かったなと振り返って思うから。

 

でもそういうときほど、なんか自分のなかに軸がなくて、人からの評価とか見え方とかを気にして、

「助けなきゃいけないんじゃないか」

と思っては、助けられず、

「それくらいも手を貸せない自分って小さい」

自分にダメ出しし、余裕のない自分をさらにむち打ち、余裕をなくさせていた

 

電車で座っていて、目の前にお年寄りが立ったときも、

「譲ったほうがいいんだろうか。でも、そんなに年じゃないかもしれないし……」

と、うじうじ考え、結局、譲れず、そんな隙にちょっと離れた席の人が、

「どうぞ」

とさっそうと席を譲り、

「格好いいなぁ。それに比べて自分は……」

と凹んだり、

「席を譲ったあの人は、目の前に座っていたのに譲らなかった私をどう思っただろう」

とまで考えてしまったり……。

 

あとで考えると、その行動(思考)って、結局、マイナスしか生み出していないんだよね。

 

相手のためになっていないだけでなく、自分にとっては、自分を傷つける「毒」になっている。

 

ぱっと行動できないときって、心か体が疲れているとき。

 

体も元気で、心も満たされているときって、考える間もなく、ぱっと席を立って、相手がその席に座ろうが、座らなかろうが気にならないレベルで「どうぞ」って言って、立ち去れる。

 

最近になってようやく、そういう「心が満たされている」状態も増えてきて、「さっそうと席を譲って去っていった人」の気持ちがちょっと分かるようになった。

 

そういうときの行動って、頭じゃなくて、なんか心でしているんだよね。

だから、すっと動ける。自分でも「あ、なんか立ってた」ってくらい。

 

心での行動ってそんな感じなんだと分かると、前みたいに辛かったときは、別に無理しなくて良かったよなって思う。

 

今も、自分が辛いときは、目をつむって、自分を回復させることに集中させてもらうし。

 

「断る」ことで、自分との絆は深まる」でも書いたけど、自分がそう選択していたら、人の選択も恨まない。

 

だから、自然と人のために動きたくなるようになるまでは、自分中心でいいって思うんだ。

それは冷たいってことじゃなくて、共倒れは意味ないよってこと。

 

自分が満たされ、元気なら、ハートが勝手に最善の行動を見つけてくれる。

ハートの動きが良くないときは、自分のハートに栄養をちゃんとあげよう。

 

「今はそういう時期なだけだから、大丈夫。

私は、疲れるくらい頑張っているっていう証」と言ってあげる。

 

間違っても、弱ったハートに、批判の毒を盛らないようにね。

 

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執筆者:遊部 香(あそべ かおり)

文章を書いたり、写真を撮ったりしています。

現在は、『凪~遊部香official site~』で主に活動中。

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