最近、ありがたいことに、自分にとって心地よい人間関係だけが周りに残ってきた感じがする。
元々人には恵まれてきた方だけれど、やっぱり自分自身がネガティブな思考で、人のあら捜しをするような意識だったときには、同じようにネガティブな人も周りにいたな、と思う。
心地よく付き合える人、一緒にいて明るく前向きな気持ちになれる人って、どういう人かと考えると、結局、この1点に集約される。
「自分のいい面に焦点を当ててくれる人」
そういう人は、私がたとえバカみたいな壮大な夢を語っても「それいいね。かおりんならできそう」と言ってくれる。
どんなことを言っても、「へぇ、興味深い」とか「そうだったんだ」とニュートラルに受け取ってくれる。
そういう人に囲まれていると、自分自身もそんな視点で人を見るのが当たり前になってきて、相手が実績のないことをやろうとしていても、
「きっとうまくいくよ」
と、なんか思えるし、そう口にできる。
そして、そう思えるときって、自分自身に対しても、そう思える。
「うん、きっと、できるよ」
って。
私は中・高とキリスト教系の学校に通っていて、毎朝礼拝があり、毎週聖書の授業時間があった。
聖書の授業では、聖書の一部を暗記したりした。
当時は嫌々やっていたけれど、今も覚えた個所は記憶に残っているから、面白い。
そのなかに、こんな言葉がある。
あなたの目に梁があるのに、どうして兄弟に向かって、『あなたの目から塵を取り除かせてください』と言えようか。
偽善者よ。まず自分の目から梁を取り除くがよい。そうすれば、はっきりと見えるようになって、兄弟の目から塵を取り除くことができるであろう。
訳のせいもあると思うけれど、結構厳しい口調だし、当時は厳しい教えとしか思わなかった。
「まず自分の行動を正さなければ、人の行動など正せないぞ」というような。
この聖書の言葉が何を言っていたのか、正確には今も分からないけれど、最近思うのは、
「人にいい影響を与えられる人は、自分自身がしっかりと満たされ、揺るがない人だけだな」
ということ。
自分が、良い面にフォーカスして人を見られないような状況なら、その人にアドバイスをしたり、その人を助けようとするべきじゃない、と、最近、思う。
(席を譲るとか、重い荷物を運んであげるとか、そういう物理的な話は別だけど)
逆に言えば、自分がそこまで整っていないと感じるなら、「困っている人を助けなきゃ」と、責任を感じなくてもいい。
困っている人は、ちゃんと助けられる人が助けるから。
まずは、自分で自分を整え、満たしてあげることが、一番大事だよ。
さっき、席を譲るのは別と書いたけれど、本当に自分がしんどかったら、席も無理に譲る必要さえない。
自分を優先するのは、「自分勝手」で「わがまま」なことじゃない。
自分を整え、満たすこと以上に、世の中に大切なことは、なにもない。
自分が整っていないのに、人を助け、導こうなんて、それこそ「偽善者」なんだろう。