見えている選択肢の数が人生の質を左右する。だから多くの可能性を伝えたい:素敵な仕事人インタビュアー 遊部 香

遊部香

素敵な仕事人インタビューも、たくさんの方にご協力いただき、20人になりました。本当にありがとうございます。

インタビューをしていくなかで、多くの方に「今までの自分の人生を振り返ることができ、しかもこんな形にまとめてもらえて、とてもよい機会だった」と言って頂きました。とても嬉しい言葉です。

そんな言葉を頂いているうち、自分自身の今までのことも、一度きちんとまとめてみたくなりました。ということで、今回は私自身のインタビュー記事です。「素敵な仕事人」かは分かりませんが、よろしければお読みいただけたら。


文章を書き始めたのは、人間関係を生き抜く術として

小学生の頃から、小説の原型であるような「物語」を書いていたという香さんですが、そのきっかけは、友達との交換日記だったそうです。交換日記にはどんなことを書いていたのか訊いてみると、こんな答えでした。

明るい編と暗い編というのがあって、暗い編には、周りの人間関係に関する悩みをいつも綴っていた。

私と、交換日記をしていたAさんとは、8人ぐらいのグループに所属していたのだけれど、そのなかで私がいじめられていた時期が長くて、“なんであのとき、向こうについて、〇〇なんて言ったの。傷ついた”みたいなことを、Aさんに直接伝えたりしていた。Aさんも、交換日記のなかでは、“ごめん、悪いと思っていた”みたいな。

当時から、しゃべることには苦手意識があったという香さんにとって、そこに想いを吐き出し、それをきちんと受け止めてくれる相手がいたというのは、とても大きかったそうです。

ある意味、あの頃、文章を書くという行為は自分にとって、あの生きづらい状況を生き抜くための術だったのではないかと思う

という言葉は印象的でした。

nikki  その交換日記の「明るい編」のコンテンツとして、物語を書くということも始めたそうですが(1人が途中まで書いた話を、相手が続け、それを繰り返すという形で)、あくまでそれは、1つのコンテンツであり、実は重要な部分ではなかったそう。

頑張って手に入ったもの

香さんは中学生になると、自分一人でも物語を書くようになります。でも、その頃、力を入れていたのは、小説を書くことよりも、演劇でした。

演劇には小学生のころから関心があったものの、同級生に演劇部の人がいないということから中学1,2年のころは入部をためらっていたそうですが、「何のために生きているのか、張り合いがない毎日を変えたいと思った」という理由で、香さんは、中学3年生になって、演劇部に入部します。

kamomeそして、高校2年で部長になり、30人ほどのメンバーをまとめ、2つの劇を演出します。今までリーダー的な役割など自分には無理だと思っていた香さんですが、そのときは、演劇部の部長と、委員会の部長とを兼任し、休み時間の度に職員室に走って、様々な調整をこなすような日々で、「大変なことも山ほどあったけれど、充実していて、楽しかった」そう。

そんなふうに演劇にはまっていた高校時代ですが、引退すると大学受験が迫っています。香さんは文学部卒なので、てっきり、もともと文学に興味があってその学部を選んだのかと思っていましたが、実はそうではないと言います。

高2の頃に早稲田の劇団の招待券を手に入れて、見に行ったことがあった。その前から、演劇をするなら、早稲田という頭があったけれど、その芝居は本当にすごいレベルで、当然だけれど、高校生の芝居のレベルとは全然違って、圧倒された。それで、とにかく早稲田に入るぞ、と思っていた。

東京オレンジ第1回その芝居には、今は大河ドラマの主人公をされている堺雅人さんが端役で出ていたそう。そう訊くだけで、すごい劇だったのだろうと思います。

そして、香さんは、「早稲田に入れるなら、学部はどこでもいい」という気持ちで受験勉強をし、唯一指定校推薦があった文学部に入ったとのこと。

頑張っても手に入らなかったもの

香さんは、その「早稲田に入った」ことを、「頑張って成し遂げたこと」と言っていました。でも、「頑張っても手に入らなかったものもある」と。それが、演劇の世界での成功でした。

早稲田に無事入学した香さんは、高校時代に憧れた劇団に入りますが、レベルが高いところだけあって、「数週間で辞めていく新人が後を絶たない」ところだったそう。

そして、香さんも

何度も、辞めろ、と怒鳴られ、何度かは“もう一度チャンスをください”と頭を下げにいったけれど、8月の新人公演を待たず、続けられなくなった。

souという挫折を味わいます。そして、その後、まだ出来たての劇団に入ればいいのではないかと旗揚げを控えた劇団に入ったり、試行錯誤しますが、「このレベルで続けていても、意味がない」という思いに取りつかれ、20歳の頃、演劇をきっぱりやめたということでした。

後にその頃のことを話して、“挫折を味わうには若すぎる”と言われたことがあるけれど、私は振り返ってみると、良かったかなと思う。

最近、私が考えるのは、20代までに経験しておいた方がいいことは3つだなということ。それは“頑張ってなにかをやり遂げたという経験”“頑張ってもどうにもならないことがあるという限界を知った経験”“見知らぬ人に助けてもらうとか、人を信頼できるようになる経験”。

よく〇歳までにやっておきたい20のこと、とかいうタイトルの本などあるけれど、実はシンプルに3つくらいしかないかな、って。

何の仕事に向くかは、やってみないと分からない

最初の劇団にいた頃は、授業を休むことを推奨されるくらい、とにかく演劇漬けの日々だったそうですが、そこを辞めたあとは「普通の大学生活になった」そう。

そして時間ができた香さんは、アルバイトを始めます。最初のバイト先として選んだのは個別指導塾でした。

塾の先生という仕事を選んだのに深い理由は何もなかった。
なんとなく、大学生と言ったら、塾の先生か家庭教師をするもの、みたいに思っていた。

香さん自身は、自分が接客業に向くなどとは欠片も思っていなかったそうですが、意外にも始めてみると、「楽しかった」そう。

バイトの時給は900円から始まって、周りの人には“なんでそんなマクドナルドみたいな金額で働いているの?”みたいに言われたこともあったけれど、自宅生だったし、正直、お金のために働いているという感覚はなかった。

ただちょっと生徒の力になれたり、生徒が心を開いてくれて、自分を指名してくれたりすると、それが嬉しくて、結構楽しく働いていた。バイトに行くのが嫌だな、と思った記憶はない。

途中、他のアルバイトと掛け持ちをしたことはあるものの、結局そのバイトは大学を卒業するまで続けたそうです。

教育業界にこのままいるのもありかも

香さんが大学3年の頃はちょうど就職氷河期で、「女子+文系となると、就職先を選べる感じではなかった」といいます。

大企業に資料請求をしても、「これから説明会の日程を決めますので、お待ちください」という手紙が届くだけで、気づくとその企業の男子学生向けの説明会が開かれていた、ということもあったそう。

ただ、そんな状況のなか、日能研から“うちの会社どうですか?”という資料が届きます。

向こうからアプローチしてきてくれた会社は、そこが初めてで、日能研のパンフレットを手にしたとき、“このまま教育業界に就職するというのも、ありかもしれない”と思った。それまでは、なぜかアルバイトと正規の仕事はまったく別物と考えて、全然関係のない業種ばかり狙っていたのだけれど。

学習塾業界では男女差別をされることもなく、教育業界に的を絞ってからは「それなりに快適な就職活動ができた」そう。

しどう会そして学習塾業界ばかり20社ほど見たあとに、創業者と専務の話が心に響いたという理由で、中学受験対策の塾をメインにしている会社に入ります。

楽しかった仕事と、良い仲間との出会い

入社当初は、昼頃までは本社で通信教育のための教材を作り、夕方になると支教室に向かって、いわゆる“塾の先生”として、国語や算数、たまには理科や社会を教えていたという香さん。

最初の年は週に3日は三鷹教室に行っていたのだけれど、そこの室長が心の広い優しい人で、生徒も非常にいい雰囲気で、三鷹の頃は本当に楽しかった。
最初に受け持った5年生のことは本当にかわいくて、“もしこの子たちを引率しているときに車が突っ込んで来たら、身を挺して守れるな”と思った。
それくらい、子どもたちとの時間は好きで、仕事は楽しかった。

またこの頃、よい小説仲間にも出会ったと言います。

小説は子どもの頃から、ずっと書き続けてはいた。大学時代は一応、“文芸専修”という文章を書くことを学ぶ専修に進み、卒論は小説だったくらい。

でも、就職活動のときにマスコミは一切受けなかったし、文章を書くことを仕事にするというイメージは全くなかった。小説も自分のサイトに載せるくらいで、投稿などもしていなかったし。

という状態だったそうですが、23,4歳の頃、ネットで知り合った人から誘われ、リアルな場で月に1回集まり、お互いの作品を遠慮なく叩きあうような集まりに参加するようになります。

私もかなり人にきついことを言ったし、人からもたくさん言われた。でも、そんな経験は初めてで、楽しかった。

で、そのなかに一人、地方の文学賞を複数獲って、既に数百万円くらい賞金稼ぎをしている人がいて、非常に刺激を受けた。

その賞金稼ぎをしていた人は、今はビジネス書の作家としても(作家だけでなく、ビジネスマンとしても)成功され、書店でよく著書が平積みになっているほどの人だそう。

さいたま市スポーツ文学賞身近な人が成功していると、自分だってできるんじゃないかと思える。そういう勘違いっていうのも大事。その集まりに参加するようになってから、私も毎年必ず4,5作は賞に投稿するような生活に変わったし、それで結果も出した。

スポーツの世界でも一人が“きっとこれ以上の記録は出ないだろう”と思われている記録を破ると、次々その記録を破る人が出てくるというけれど、“あれ? もしかしたら、できるんじゃない?”と感じるその想いは、結構すごい力になる。

そういう意味で、自分が身を置く環境には気を遣った方がいいと思う。

追いつめられた子どもが取り出したカッター

そんなふうに公私とも充実していた香さんですが、就職4年目に壁にぶち当たります。

尊敬していた会長がその会社を人に売り、あまり教育業界に縁がなかった人がトップになって、何かがちょっとずつゆがみ始めたのを感じた。私はただの“下っ端”だったけれど、それでも、会社の空気が変わってきたのを肌で感じていた。

それに加えて、4年目に入る直前に、本社勤務からある一つの支教室の所属になった。そこは室長が厳しくて、そこに所属になった人は次々辞めていくという噂があった。

実際異動してみると、室長が自分に対して厳しいということはなく、むしろ色々気遣ってくれた。
でも、受験勉強を少しでも楽しくというモットーで運営されていたそこの塾が好きだったのだけれど、その教室の雰囲気は違った。

三鷹の教室と真逆で、生徒たちは競争させられ、疲弊していて、少しのことでも、ぴりぴりして、まだ若かった私も、生徒たちと真正面からぶつかったりもした。その状況を誰に相談できるわけでもなく、ただ日々、消耗していく毎日だった。

そして、香さんはその会社を辞めることを選びます。

今でも忘れられないのは、授業中にメモを回して遊んでいた6年生の女の子を叱ったときのこと。
その子は、カンニングした、しない、などで何度も衝突していた相手で、私もついに尻尾を捕まえた、という勢いで、ついきつく彼女を叱ってしまった。

そうしたら彼女は急にカッターを筆箱から出して、刃先を全部出して、私に向けてきた。“小学生が人を殺しても、顔写真が新聞には載らないでしょう?”って。

人を殺すには貧弱すぎるカッターの刃と、その子の虚勢。そしてそんな彼女に何も言う言葉を見つけられなかった自分……。

今、振り返ると、自分にもできたことはきっとたくさんあったのだろうと思うけれど、その頃の自分には何をしたらいいのか、まるで分らなくて、そして逃げたのだと思う。

それは、最初の劇団を辞めさせられたときと同じかそれ以上の挫折の経験だったと言います。

その会社にいた4年のうち大部分は楽しい日々で、塾の仕事は好きな仕事だったし、今でも、いつかまた、なんらかの形で教育に携わりたいとも考えている。でもそれは、こういう子どもや、いじめを受け、中学受験の勉強で疲弊していた小学生の頃の自分を救うための何かを手に入れたあとだとも思っている。

教育業界には今も未練はある、という感じかな。子どもたちに何かし忘れたことがある、という感覚が残っている。

資格を獲ったら人生大逆転できるか?

仕事を辞めた香さんは、将来子供ができても続けられる仕事に就きたいと、6か月間WEBデザインを学ぶ職業訓練校に通ったあと、結婚し、しばらく専業主婦になります。

旦那さんは「小説家を目指したいなら、働かずに小説を書いていてもいいよ」と言ってくれるような優しい人なのだそうですが、香さんは、「小説を書いて投稿しても、ほとんどは一次選考で落ちて、どこが悪かったのかフィードバックもない。賞を獲る以外、次に進むための一歩をどう踏み出したらいいかもわからない。そんな人とのつながりも、未来とのつながりもなくなった日々は本当にしんどかった」そう。そして仕事を探し始めます。

でも、この頃は、アルバイトでも仕事に就くのが困難な時期で、経験がないWEBの仕事に就くのは厳しかったし、塾にバイトしたいと電話をかけても、25歳まで(当時、28歳くらい)と言われたり、3社くらいには断られた。

4年間塾で正社員として働いて、ブランク1,2年くらいだったら、簡単に塾のバイトくらいは見つかるだろうと思っていたのに、そうじゃないんだ、ということにとてもショックを受けた。

という経験をしたそう。
そして、雇ってくれた個別指導の塾で働き始めたものの、周りはほとんど大学生で、違和感を覚えつづけたと言います。

みんな扶養の範囲で働くのが当たり前。大学時代の自分のように、お金を稼ぐために働いている感じでもないから、みんなボランティア精神も豊富で、きちんと稼げる環境ではなかった。

個別指導だから一人一人に向き合え、以前のようなストレスはなく楽しく働けていたという香さんですが、このまま大学生と同じような時給で働き続けても未来がないと思ったそう。

そして香さんが考えたのは、「なにか資格でも取ったら、人生大逆転できるのではないか」ということでした。

今の自分が、当時の自分にアドバイスするとしたら、“甘いよ”という感じだけれど、でも、そのとき甘い考えであっても、一歩踏み出したから、今の自分がある。
そういう意味では、読みが甘くてもなんでも、行動するパワーと時間があるなら、なんでもしてみるといいと思う。

なぜ社会保険労務士資格を目指したのか?

srなぜ社労士だったのか、という質問に対する答えは、想像より長いものでした。

塾のバイトをしていた頃、WEBのスキルを生かして、数社のサイトを作った。そのとき、サイトの内容とか、サービスの見せ方について一緒に話し合ったり、ちょっとコンサル的なこともしていて、“遊部さんは、思ったことをはっきり言ってくれるのがいい”と言われた。

自分も、WEBを作ることより、そういうコンサルの方が合うなと思って、中小企業診断士の資格でも獲ろうかと思ったのが最初だった。

でも、それは「今になって考えると、我ながら、未熟な考えだったと思う」とのこと。

実際に社労士の資格を獲って気づいたのは、「士業で成功する人は、資格などなくても成功する人」ということだった。

“WEBのデザインやプログラムは苦手。でも、コンサルは好き”と気づいたのなら、苦手な部分は人に任せて、自分はサイトの全体像のヒアリングと方向性のコンサル、そして文章執筆の部分に特化してサービスを組み立てれば良かったのであって、そのためには何の資格も要らなかった。

でも当時の私は、「〇〇さえ手に入れば、人生すべてうまく行く」みたいな神話に頼って生きていたのかもしれない。資格を獲ったら、人生が変わる。文学賞さえ獲れれば、人生バラ色になる、って。

そんな反省はありつつも、中小企業診断士は単体では仕事になりづらいらしい、それよりも社労士の方が独立開業にはいいようだ、という知識を得て、香さんは社労士試験を目指して勉強を始めます。

自己啓発書とかスピリチュアルな本には“まず現状を肯定することが大事”みたいによく書かれているけれど、当時の“今の状況じゃダメだ。変わりたい。変わらなきゃ”という心の底からの想いは、ものすごいエネルギーだった。

資格を獲るために夢中になって勉強して、合格し、今まで出会わなかった人たちに出会ったことで、あの場所からはちゃんと脱出できた。それは本当に良かったと思う。

自分の文章力はお金になる?!

ただ試験には1発で合格したものの、お客さんの獲得には苦戦したと言います。

社労士試験に合格したのが2006年の11月。実務経験がなかったから、2007年の夏に指定講習というものを受けないと、開業できなかった。だから、実際に開業したのは2007年9月。つまり、11か月ほどは、塾のバイトを続けながら、開業準備をしていた。

でも開業準備と言っても、セミナーに行って勉強したり、社労士仲間を作ったりというだけで、お客さんができたわけではなかったから、11か月開業準備をしていたのに、9月に開業してもお客さんはゼロ。12月になってもゼロのままだった。

でも結果として、このお客さんゼロは良かった。

なぜ良かったのかというと、以前参加した社労士講座を主催していた会社の社長から年末に電話があり、翌年からその会社に勤めることになったから、だそう。

最初は「ちょっとうちに修行に来ないか」という話だったので、“修行というからには、社労士の実務を学ばせてもらえるのだろう”と思って香さんは行ってみたそうですが、なぜかメインの業務は、「社労士向けのセミナーの企画・告知・運営」でした。
特に「遊部さんは文章が書けるんだよね」ということを買われて、メルマガ発行の担当になったそう。

今まで文章を書く仕事などしていなくて、以前作った名刺にただの話題作りで、〇〇文学賞受賞などと書いていただけなのに、“文章、書けるんだよね?”と言われ、急に文章を書くことがメインの仕事になって驚いた。

1464350489458と香さんは言っていましたが、実際にメルマガを担当し始めると、以前より明らかに物やセミナーが売れ始め、“1年の修行”だったはずが、正社員に登用されるなど、重宝され始めたそう。

もちろん社員の立場だったから、文章力だけで稼いでいたわけではないけれど、次第に慣れてくると“このセミナーは、ここをこうした方が集まるんじゃないか”“このWEBのシステムは、こんなふうに変えるともっと使いやすいんじゃないか”という提案も通るようになってきた。当初思い描いていたのとは違ったけれど、“コンサルタント”を目指していたときにやりたかったようなこともできていたのかもしれない。

遠回りしても、結果的にはたどり着くべきところにたどり着いたということなのかもしれませんね。

社員→フリー→社員→フリー

ただ2013年に香さんは5年ほど勤めたその会社を辞める決意をします。

理由は一つではなくて、簡単には言えないけれど、シンプルに言うなら、単純に、自分は組織の中で働くのが合うタイプではなかった、ということでしかないと思う。

長く組織にいると、やっぱり少しずつ“管理職”的な役割を期待されてくるけれど、自分は末端で、自分のスキルを磨きながら物を作る職人でありたいと思ってしまった、というのが一番、しっくりくる説明の仕方かと思う。

表向きは、森3中の大島さんじゃないけど“妊活する”とも言っていて、実際、2013年の7月には妊娠が分かったから、ま、それも嘘ではないのだけれど、子供が大きくなっても、もう社員という立場で、どこかで働くことはないだろうな、と思う。

ただ、その会社からは退職したあとも、文章執筆をメインにした仕事を“業務委託”の形でもらえることになります。「今もその会社からまとまった定期収入をもらえているのは、本当にありがたい。そのおかげで、未来に投資するような活動もできている」そう。

ところで、一度フリーになったあと、再び社員になり、またフリーになる人は珍しいですよね。それについて、香さんはこう言っていました。

前に話したように、塾のバイトの応募でさえ何社も断られたから、こんな人間を正社員として雇ってくれるところがあるなんて、そのときは思っていなかった。だから、社労士の勉強をはじめた頃は、“もう自分で稼いでいくしかないぞ”と思っていた。

周りからは、独立するなんてすごい、とよく言われたけれど、自分の感覚は全然違って、“これしか道がないんだから、しょうがないじゃん”という思いだった。

でも、色々経験して思うのは、どんなことでも、辿り着きたい場所に辿り着く道は一つじゃないな、ということ。

当時の私のように、「4年間の正社員経験、そのあと2年ほどブランク」というような経歴の人は、普通に企業に応募しても落とされる可能性が高い。

でも、その人が持っている本当の力とか人柄は、履歴書なんかじゃ分からないから、正面突破しようとしなければ、案外、脇の方から道が開ける可能性だってある。

文章を書くことを生業とするためにも、文学賞を獲って作家になるとか、出版社から原稿依頼をもらうことが必ずしも必要でない。誰かひとり、一社にでも、書く文章を気に入ってもらえれば、それで生計が立てられる可能性だってある。

人は深刻になればなるほど、視野が狭まってしまうものだと思うけれど、“何とかなる”と腹をくくって、ちょっと周りを見回してみれば、道なんて本当にたくさんある。

別に社員になれないなら、ならなくたっていい。思いついたことを色々やっていれば、何か一つは適性とニーズが合致して仕事になるものがあると思うから、“仕事がなくなった、もうダメだ”という真っ暗な気持ちになるのは、まだ早いよ、と言いたい。

心を病みそうにつらい職場なら、一度離れて、それから先を考えたっていい。

選択肢は無数にあるし、いざとなったら人間、結構色々なことができるもの。自分が思い描けるものだけが現実ではなくて、現実の世界はもっとずっと広い。

自分自身が様々な経験をしてきて思うのは、見えている選択肢が多い人ほど、幸せに近づきやすいのではないかということ。

たくさんのことをしろということではなくて、実際にするのは1つのことであっても、“いざとなったら、他にも可能性がある”と思えるかどうか。

私がこのブログに様々な職業の人のインタビューを載せたいと思っているのは、そういうたくさんの可能性の存在を伝えたいからでもある。

もちろん職業が同じでも、一人ひとりの人生からは、全く違う「逆境から脱出するヒント」「幸せに生きるヒント」をもらえるから、そういうものも数多く伝えていきたい。

ただ淡々と日々を積み重ねていきたい

1464350847486ここ数年の話になったところで、これからの展望について聞いてみました。

以前は、「〇〇文学賞を獲ってデビューして、〇〇賞を獲って、作品が映画化されて……」とか、「社労士として開業して1年目は年収〇万円、2年目は……」とか、本当に色々なことをシュミレーションしたり、妄想したりした。でも、何一つ、思った通りにはならなかった。

最近思うのは、ただ淡々と日々を積み重ねていきたい、ということ。

正直、素敵な仕事人インタビューも増やしていくことに本当に意味があるのか、現状、誰にどう届いているのかよく分からなくて、時々、“このまま続けて行っていいんだろうか?”と迷う。

でも、今まで20人にインタビューさせてもらって、少なくとも自分自身は非常に多くのことを学べた。また、一人ひとりと話をすること、そして一人ひとりの原稿をまとめることは単純に楽しかった。だから、それでいいのかな、と思っている。

今はコツコツ記事を増やしていくことしかできないけれど、それを続けていれば、いつかもっと必要な人に必要な言葉がちゃんと届くようになるんじゃないか、と、ただ信じているというか。

なるほど。
でもそのあと、香さんはこんなことも話していました。

ただ、このブログは一つのツールで、インタビューはインタビュー記事になって終わりではないとも考えている。100人なのか、何人なのか、今は分からないけれど、たくさんの人に話を聴いたあとには、それを1つのコンテンツにまとめて、教育の現場や教育に携わる人に何らかの形で届けるとか、必要なところとそれにふさわしい誰かをつなげる活動をするとか、どこかに展開していきたいな、と思っている。

いや、展開していきたい、というより、展開していくかもなという予感を抱いている感じ。

以前インタビューさせてもらった社労士・桑原先生は「“なりたい自分”などというのは邪念」と、下田さんは「あれをしたい、これをしたい、というのは私欲」言われてたけれど、最近、その感覚が分かり始めた。

大切なのは、自分がどうしたいかというより、神様がというか、この社会が何を欲しているかだな、と。

そういう意味でも、きっと自分の活動は意味のあるものに広がっていくと信じて、ただ自分は淡々と日常を積み重ねていきたいと思う。

そうやって行いを積み重ね、心も整ったとき、道は自然と開けると思うから。

今日は、香さんがこのブログでしたいと思っていること、そして20人分のインタビューの内容が香さんの血肉になっていることが分かりました。

香さんの伝えたいことが、必要な人に届くといいですね。
(協力: 池田 薫さん  プロフィール写真撮影:まーしーさん

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執筆者:遊部 香(あそべ かおり)

オフィス言の葉代表
インタビューライター


千葉県市川市を拠点に「インタビュー記事作成」「WEB文章設計・ライティング」などをしております。

自分自身が多くの本やブログ、メルマガから「しあわせに生き、しあわせに働くヒント」をもらったように、自分もその知識と経験、文章力で、誰かの今日と未来を輝かせるためのお手伝いができたら嬉しいなと思っています。

文章を書くのが仕事であり、趣味。純粋な趣味として、花や風景の写真を撮っています。

写真と「しあわせに生き、しあわせに働くヒント」になる文章を合わせた本や、素敵な仕事人の名言を集めた本を出版したいと思っています! 出版社とつなげてくれる方がいたら大歓迎♪

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