一昨日「人生がうまくいっていない人は「文章記述」が間違っている」という記事でご紹介した國分先生の本には、もう一つ面白いことが書かれていました。
それは「頭がいい」「頭が悪い」というときの「頭」というのは、実は「知能」「学力」「ソーシャル・インテリジェンス」など様々な意味を含むものだということ。
つまり、「頭がいい」「頭が悪い」と、私たちは普通に言いますが、本当はそう簡単に言い切れることではないんですよね。
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「頭がいい」というときの「頭」の内訳
國分先生は、先に書いたように「頭がいい・悪い」というときの「頭」には、大きく分けて
・知能
・学力
・ソーシャル・インテリジェンス
があると言われています。
・そのうち知能・学力というのは「アカデミック」な尺度のもので、抽象の世界にどれだけ馴染めるかという能力だとのこと。
たしかに、「3/5 ÷ 5/6」を計算しようと思ったら、抽象的な概念を持たないと難しいですものね。
いい大学を出たとか、学生時代成績が良かったというのは「学力」の話です。ある程度「知能」もなければ、偏差値の高い大学には入れないと思いますが、そこそこの知能があれば、努力で補い、「学力」があると見せることもできます。
でも逆に、勉強できる環境になかった、他にもっと熱中できるものがあった(スポーツなど)という理由で、「知能」は高いのに「学力」が低いと評価され続けて「自分は頭が悪い」と思ってしまっている人も多いはずです。
「学力」は、「国語は得意だけれど、数学は苦手だった」などということがあるように、細かく細分化されます。
同じように「知能」も、推理力・解釈力・記述力・記憶力など、分類すれば何種類にもなり、すべてに秀でた人もいるかもしれませんが、大抵はばらつきがあるものです。
・「学力」「知能」が抽象的な世界だったのに対し、「ソーシャル・インテリジェンス」は、具体的な世界で適切にふるまう能力です。
たとえば、気の利いた話ができる、事務処理能力が高い、現実判断力がある、必要なときに必要な行動がとれる、上手に歌が歌える、などですね。
そのすべてに秀でている人などいる?
レオナルド・ダヴィンチなど、多くの分野で成功を収めた人もいますが、きっとそんな多彩な才能を持った人にも、ダメな部分というものはあったはずです。
たとえば経理の処理はできなかったとか、気遣いはあまりできなかったとか……。事実は分かりませんが。
私自身は、早稲田大学第一文学部を卒業しています。ですからある程度「学力」はありました。
ただ、実は高校からの指定校推薦だったので、高校で「いい子」にしていた部分も評価に加えられています。ですので、純粋な外部受検をしていたら、多分、自分は早稲田には入れなかっただろうな、というコンプレックスのようなものを、実は持っています(特に同窓の人に対して)。
また、若いころは「科学者」「建築士」に憧れていたのに、数学や物理の勉強に行き詰まり、文系に転向しました。ただ勉強に行き詰ったというより、空間把握力のようなものが、恐ろしく欠落しているようで、「この図形を反対側から見たら、どう見える?」などという問題は、さっぱり分かりません。
あと優秀な理系の人は、Aという道具をA本来の用途だけではなく、BにもCにも応用して使うことを閃けるようですが(宇宙船の事故を、そんな創意工夫で克服した映画もありましたよね)、そういう「応用力」も足りないような気がします。
「早稲田出身」というだけで「頭がいいんだね」と思われたり、言われたりすることもありますが、実情はそんなものです……。
ただ、だからこそ、國分先生の
「頭がいい・悪いと言っても、様々な要素があるのだから、自分が少しでも自信を持てる方を見て、それで“自分は頭がいい”と思いこんでしまえばいい」
という言葉には、救われる思いがしました。
理系的な知能はなくても、私はちゃんと本を読んで、要旨を理解して、文章が書ける。
その点では、頭がいいのだ!
……と、とりあえず思い込みます(笑)
まとめ:自分は頭が悪いというコンプレックスを解消したいなら…
これを読んでいる方のなかにも「自分は頭が悪い」とコンプレックスを持っている人は多いかもしれません。
そういう人は、上の分類から少しでも「これなら」と思えるものを選んで、「自分は頭がいい」と宣言してみてくださいね。
自己イメージが、未来を作ります!