國分康孝さんの「〈自己発見〉の心理学」を読みました。
同じ出来事を経験しても、それがストレスになる人もいれば、ならない人もいます。
同じ言葉を言われても、傷つく人もいれば、傷つかない人もいます。
なぜか?
それは「出来事」→「感情」ではなく、
本当は「出来事」→「その人の考え方」→「感情」だから
という「認知(行動)療法」の考え方をこのブログでは何度も紹介してきました。
そんな「その人の考え方」について、「論理療法(認知療法の前身みたいなもの)」の専門家・國分先生は「文章記述」と名づけ、様々な場面で人は間違った「文章記述(ものごとの捉え方)」を持ち、それが原因で人生がうまく行かなくなっていると言われています。
今日はそのあたりのことを、もっと突っ込んで考えてみたいと思います。
誤った文章記述に1つ気づけたら、その1つ分、自由になれるかも
誰しも、「言われてみれば、そう信じる根拠はないけれど、気づいたらそう信じていたな」と思う、その人にとっての“常識”を持っているはずです。
たとえば、「すべての女性は母性本能をもっているべきだ」という文章記述にとらわれすぎると、子供に苛々したり、子供から離れて自分の時間が欲しいと思ったときに、「自分は母親失格ではないか」と悩みすぎてしまいます。
そういうときは、「すべての女性は母性本能をもっているべきだ」という考えは、本当に論理的で、根拠がある正しいものなのか、一度考え直してみるといいわけです。
また男性が「家庭は憩いの場である」という文章記述を持っていると、家庭に問題が起こったり、育児や家事が大変になったりすると“これは違う”と思ってしまいます。
でも、結婚して夫や妻、義理の息子や娘、親という役割を持つと、家庭は「憩いの場」ではなく、「第2の職場」と捉えた方がいい場面も出てきます。
ですから、「家庭は憩いの場であるに越したことはないけれど、家庭においても果たすべき役割はあり、それは果たしたほうがいい」と文章記述を改めた方が、生きやすくなります。
同じように、「人を拒否すべきではない」「やるならいい結果を出さなくてはいけない」「転職すべきではない」など、至る所に、もっともらしい顔をした「誤った文章記述」があると國分先生は言います。
誰でも一つくらいは、“言われてみたら、そう思い込んでいたかも。でも、よく考えたら、それだけが真実のわけないな”と思える文章記述を持っているものです。
それにひとつ気づけたら、一つ自分は自由になれます。
「~すべき」「~であるべき」でがんじがらめになっている人へ
特に「~べきだ」という思い込みをたくさん持っている人は、自分で自分の生き方や考え方を締め付け、窮屈になっていることも多いはずです。
私も心理学を勉強するまでは、気づかないうちに「~べき」という思考をたくさん持っていました。
「やるからには完璧を目指してやるべき」「人は常に目標に向かって努力していくべき」「嘘はつかないようにするべき」「人に迷惑をかけないようにするべき」……などなど、挙げたらきりがないくらいです。
大人になって、心理学などの勉強をしたり、様々な人と会うなかで、その「べき」思考は(完全に消えたわけではありませんが)だいぶ弱まってきたと思います。
そして、感じるのは、「~べき」という考え方は、自分自身の思考や行動も制限しますし、人にそれを押しつけた場合、相手も迷惑をこうむり(さらに、相手が思うように動いてくれないと苛々し、さらに自分を窮屈にします)、いいことなどなかったなということです。
ただ、「~べき」という考え方は窮屈だし、自分のためにも周りの人のためにもできるだけ減らしたほうがいい、と考えても、「『べき』という考え方はやめる『べき』」などと思ったら、逆に「べき」を増やしてしまいます。
そこで國分先生が言われている方法をぜひ、取り入れてみましょう。
それは
「~べき」という考え方を持っていると気づいたら、
「~であるにこしたことはない」「~であるほうが良い」くらいに考え方を弱めてみる、ということ。
たとえば、私はあまり料理をするのが好きではありません。
ただそこで「妻は家事を完璧にするべき。女性は料理を楽しむべき」と思ってしまうと、しんどくなります。
ですので、文章記述を変えてみます。
例えば……
「妻は家事を完璧にこなせれば、それに越したことはない。料理も楽しめるなら、良いことだ」
くらいに思えれば、少しは楽になります。
そして“まぁ、いつかは料理を楽しめるときもくるかもな。今も、たまには楽しいと感じることもあるしな”と思えたりするわけです。そこには、「楽しまなくてはいけない」というプレッシャーのようなものはありません。
男性の方にはあまり伝わらない例だったかもしれませんが……
仕事の場面で言うと…
「会社では重要な役割を与えられ、活躍するべきだ」と思ってしまうと、そうでない場合、自分がダメだなと感じてしまいますが、そんなときは、こう考え方を変えてみるといいよ、ということです。
「会社で重要な役割を与えられ、活躍できるに越したことはない。でも、縁の下の力持ち的な働きにも十分意味がある」
とか、
「会社で重要な役割を与えられ、活躍できるに越したことはない。でも、仕事以外に趣味を持ち、それで人生を充実させられている自分も悪くない」
とか。
考えていくと、文章記述というのは、いくらでも変えていけるのですね。
もし「こんな考え方が自分を苦しめているのかもしれない」と思いつく考え方があったら、自分で書き換えてみてくださいね。
國分康孝先生の「〈自己発見〉の心理学」には、様々な場面での文章記述転換のヒントがありますので、本を読むのもお薦めです。
[…] 一昨日「人生がうまくいっていない人は「文章記述」が間違っている」という記事でご紹介した國分先生の本には、もう一つ面白いことが書かれていました。 […]