努力して、成果を手にしてきた人の多くは、自分で将来を計画し、その計画通りにまた努力を重ね、物事を推し進め、さらなる成功を手にしていきます。
そういう努力して結果を手にするということも、人生には大切です。
でも、人生には、コツコツ、ゴリゴリ努力して進んでいっても、思うようにならないこともあります。
そういうときは、思い切って、「自分でどうにかする」という固い意志を捨て、流れに身をゆだねてみるのもいいかもしれません。
星野富弘さんのエッセイから学ぶ、身をゆだねて流される大切さ
体育教師をしていた頃、その指導中に頸髄を損傷し、首から下が動かなくなってしまった星野富弘さんという方がいます。
その方は、入院中、口で絵筆をとり、花の絵と詩を色紙に描きはじめ、その後、画家・詩人として活躍を続けています。
「かぎりなくやさしい花々」などの本をご存知の方も多いのではないでしょうか。
その方がエッセイで、こんなことを書かれていました。
まだ泳げるようになって間もない小学生の頃、ガキ大将に連れられて川に泳ぎに行き、思わず速い川の流れにつかまってしまった時のことです。
元いた岸の所に戻ろうとしたが流れはますます急になるばかり、一緒に来た友達の姿はどんどん遠ざかり、私は必死になって手足をバタつかせ、元の所へ戻ろうと暴れた。しかし川は恐ろしい速さで私を引き込み、助けを呼ぼうとして何杯も水を飲んだ。
水に流されて死んだ子供の話が、頭の中をかすめた。しかし同時に頭の中にひらめいたものがあったのである。それはいつも眺めていた渡良瀬川の流れる姿だった。深い所は青青と水をたたえているが、それはほんの一部で、あとは白い泡を立てて流れる、人の膝くらいの浅い所の多い川の姿だった。たしかに今、私がおぼれかけ、流されている所は、私の背よりも深いが、この流れのままに流されていけば、必ず浅い所に行くはずなのだ。浅い所は、私が泳いで遊んでいたあの岸のそばばかりではないと気づいたのである。
「……そうだ、何もあそこに戻らなくてもいいんじゃないか」
私はからだの向きを百八十度変え、今度は下流に向かって泳ぎはじめた。するとあんなに速かった流れも、私をのみこむ程高かった波も静まり、毎日眺めている渡良瀬川に戻ってしまったのである。下流に向かってしばらく流され、見はからって足で川底を探ってみると、なんのことはない、もうすでにそこは私の股ほどもない深さの所だった。私は流された恐ろしさもあったが、それよりも、あの恐ろしかった流れから、脱出できたことの喜びに浸った。
怪我で体が動かなくなり、悩んでいた時、そのことを思い出し、元の体に戻そうとあがくのではなく、今の状態を受け入れ、「流されている私に、今できるいちばんよいことをすればいいんだ」と気づいたという話です。
(星野富弘 四季抄「風の旅」より)
一生懸命努力することが大切な時期もありますが、努力しているつもりなのに結果がでないような、何かが間違っているような感覚をおぼえたときには、たまには立ち止まり、いい流れが来るのを待ってみたり、他にもっと心惹かれる道がないか、頭ではなく直感で感じてみるようにしたりすることも大事かもしれません。
「何が何でもやるぞ」と力が入っているときより、力を抜いていたほうが、本当に良い流れには乗れるような気がします。
[…] 昨日は「たまには力を抜き、流れにまかせてみる(1)」で、努力が上手く実を結ばないときには、自分の力だけで、ゴリゴリ努力して道を切り開こうとするより、もっといい道がない […]